小説のようなもの

2008年9月16日 (火)

凍った太陽

部屋に舞う埃を浮かび上がらせる寂しい西日が、何十年も使われていなかったかのように空っぽで、極限の孤独の重みだけが塵となって何層にも積み重なったこの狭い部屋の中にぽっかりと遺された彼を照らす。
今日もまた、太陽は暮れて行く。
部屋から眺める赤すぎる太陽を見ても、もう彼は何も感じなくなった。
もう、何日外に出ていないのだろう。
思い出せない。
太陽の当たる世界と自分との間に、もう恐ろしいほどの何かひずみのようなものができてしまったようだ。
埃を被った小さなテレビからかすかに聞こえる軽薄な音達が、彼をより一層うんざりとさせる。
世界はもう二度とかつてのように廻らないように見える。
すべての地軸はずれてしまった。
今では、毎日少しずつ上がっていく気温だけが、彼に時の経過をかろうじて告げ、あの蒸すように苦しい季節を思い出させる。
街を照らし、人々に生命の躍動を与え始めている太陽は、彼の心だけを、じりじりとにらみつけるように焦がしてゆく。
その痛みが、彼を世界から、剥がしてゆく。

彼は今ここで、最後の回想をしている。

もう、終わりにするのだ。

――最近、僕はこの閉ざされた部屋の中で、あの何もかもに見捨てられた日々のことを思い出す。
思い出そうとして思い出すのではなく、あの頃に見た風景が、何の脈絡もなくまるで匂いのように、突然どこかからただよってくる。
僕を仲間はずれにしてあざ笑う人々の声、僕を去っていった人々の顔、そういうものが、何か見えないふわふわした糸を通って、過去から今に向かって濁流のように流れ込んでくる。
そこでは僕はいつも、満たされなくて悔しくて、子供のように泣いている。

今、誰が、僕に、何を知らせようとしているのだろうか。
その次元の境を繋ぐ透明な筒の先から聞こえる声は、今日も一体僕に何を伝えようとしているのだろうか。
その、何かを奪われたように無音で哀しみを叫ぶ声は。

小さかった頃の僕は、とてもよく泣く子供だった。
デパートで迷子になっただけで、まるで世界にたった一人取り残されたように号泣した。
学校から帰って家に帰ってきて誰もいないと、みんなが自分だけを見捨ててどこか知らないところに行ってしまったと思い込み、泣き叫んで家族を探し回った。
友達の家に母親と一緒に遊びに行き、母親だけが買い物に出かけたときには、その走り去ってゆく車の後姿を眺めると、なぜだかわからないけど不安で不安で、涙がこぼれてしようがなかった。
友達ともあまりうまく折り合えなかったから、いつも一人で遊んでいた。
一人で家にいて、窓から降り注ぐ太陽の光や、それを受けて少しこげたようなカーテンの匂い、葉っぱの間から漏れてカーペットに降り注ぐ光の模様、それに照らされるネコの真っ白なふわふわした毛、そういうやさしいものたちと一緒に過ごすのが、大好きだった。
そういうあたたかいものに、いつまでもいつまでも、触れていたいと、思った。

だけど、そんな日々は、あまりにもあっけなく終わってしまった。

父と母の仲が悪くなり、家の中には見えない嵐が押し寄せてくるようになった。
その嵐は、あのあたたかい光を、すべて奪っていってしまった。
父は暴力を振るうようになり、母はそれに耐え切れなくなり、家を出て行った。
飼っていた猫は突然死んで、毎年僕らを楽しませた家の前の桜たちは突然みんな枯れた。
家の中だけではなく、いつも遊んだ公園やその脇の小さな細い道、そこに生える大きな木、そういうものまですべてが、年を経るにつれて、どんどんとどす黒くなっていくようだった。
どこか遠くのほうから流れてくる黒くて臭いものが、あまりに白く清潔すぎた世界を汚染し、壊していくようだった。
友達は、何かわけのわからないものに熱中しだして、みんな公園では遊ばなくなった。
僕はそれに戸惑いながらも、なんとか適応していった。
どす黒い世界に取り残されないように、同じ色で、自分の身体や心を塗りたくっていった。
時々、公園に咲くタンポポのわたげが太陽の光を受けてそよいでいるのを見ると、何か懐かしい傷のようなものが、心の奥でうずいた。
だけどみんなはそれをブーツでふんづけて繁華街に向かって歩くようになったから、僕も、そうしようと、がんばった。

だけど、僕が適応できるスピードとは比べものにならないくらいに早く、世界の色は黒くなっていくようだった。
街は急速によそよそしく姿を変え、風は汗の混じった血のような生臭さを増し、ぬるく乾いた空が僕をにらむようになった。
しかも、みんなはそれを何とも思っていないどころか、むしろ楽しんでいるようだった。

僕はたった一人、まったく違うものを見ているようだった。
家族も友達も、誰も僕の見ているものは見ていないようだった。
僕は途方にくれてしまった。
学校に行けなくなった。
ここに居ることはできない、ただ漠然とそう思った。
だけど、どこに行けばいいのかわからなかった。
行けると思える場所、行こうと思える場所が、無かった。
だから僕は部屋にこもった。
そして毎晩毎晩、月を眺めていた。
真っ黒の中にぽっかりと異様な小ささで浮かぶ、あの青白い月を。
その月が、いつか世界を元に戻してくれることを、かすかに夢見て。
だけどそれは、いつまでたっても叶わなかった。
すべての祈りは、見捨てられていた。
世界は、どんどんどんどん、哀しく厳しくなっていくようだった。
僕には、どうしようもなかった。
本当に、どうしようもなかった。

今、何かを必死に求めて、螺旋階段を走り続けて、ここに辿りついた。
この、誰もいない、凍える草原に。
世界は、僕には決して振り向かない。

疲れはててしまった。
誰も悪くはない。
ただ、僕がもう少し、うまく生きられればよかった。――

ペンを置いた僕は、窓の外を眺めた。
今また、この部屋に差し込む西日がさらに傾き、真っ赤に凍った太陽が沈んでゆく。
昔は僕をあたたかく包んだはずの星や風までもが、僕を刺すように見つめる。
もう、立ち向かうことは、できない。
願いでも祈りでも絶望でも諦めでもなく、ただ歌を口ずさむように最後の太陽を眺めた後、僕は目を閉じた。
目を閉じていても視界が急激に暗くなるのがわかり、今まで生活していた世界が奇妙なほどぐるぐると回って異質なものとなり、僕の存在がそこから剥がれるように思った。

薄れゆく意識の中で、誰かが僕の部屋の扉を叩いた気がした。
扉が開く音がどこか遠くから聞こえて、誰かが僕を抱いたのだとわかった。
それはとても暖かい手だった。

ふと目を開けると、僕はどこか、透明な湖の見える街にいたのだった。
そこでは、夜か昼かわからない不思議な明るさの中ですべてがみずから光っていて、空も大地も風も水も、すべてがつながっているように見えた。
息をするたびに、僕の体はきらきらと光った。
教会のような古い建物の上に大きな大きな月が何かを見守るように浮かんでいて、その月光を受けて深いエメラルド色に染まった湖から柔らかい幾重もの絹のカーテンの間を縫って昇りゆく太陽が、息を呑むほどの夢の色で空を静かに照らしていた。
空は光の粒でできていて、その一つ一つに太古の精霊が宿っているようだった。
そしてそれが湖のさざなみ一つ一つに反射し、そこにはあらゆる色が宇宙から注ぎ込まれ、祈りがこめられたように輝いていた。
低い小さなたてものがたくさんあって、それぞれの窓には、ろうそくのような儚くて暖かい光が燈っていた。
そこには、一つ一つに、天使が住んでいるようだった。
彼らはその中で、きっとクラリネットの甘美の音色に合わせて、踊り歌い、微笑んでいた。
聞いたこともないような、僕を生まれるよりもずっとずっと昔に連れていってくれるような歌。
僕はそのすべてを迎えてくれるような心地よさに、もうずっとここにいたいと思った。
ずっとずっと、ここで暮らしたいと思った。

少し遠くのほうに、何か公園のような草原のようなものがあるのが見えたので、そちらに向かった。
入り口で、ちょう達が人間の子供のような姿をして遊んでいる草原だった。
その子たちがふざけるように飛びはねると、僕に向かっていい香りのする心地よい風が吹いた。
草原に入ると、草木は自ら光り、一番星のように丸く輝く花達が凛と咲いていた。
風は透明な水をいっぱいに含んだように清潔に薫り、空は青よりも深く水よりも透明で、それはまさに永遠に続いているように思われた。
そして、いつのまにやら僕は、小さな小さなとんぼになっていて、低く低くその草原を飛んでいたのだった。

そこでは、上の方から、僕を包むように声がした。
それはとても、懐かしくて深い響きをもった声だった。
オルゴールのきらめきも朝露の透明も、野獣のうなり声も世界の果ての死体の呻きも、すべて含んだ上であたたかい声だった。
雲のまったくない空のように晴れ渡っていて、やわらかな羽衣色だった。
それなのに、それはすべての哀しみや怒りを優しく強く包んでいた。
宇宙そのもののような、声だった。

そして、その声の間を縫って、とても大きな龍のようなものが、風のように音もたてずに草原を飛んできた。
すがすがしい風に舞っているように軽やかで荘厳だった。
僕はその立派な姿を見て、自分の小さな体を恥じ、ごく当たり前に、自然に、畏れた。

僕は、思わず言った。
「僕はもうみんなとは暮らせないんです。
僕はみんなと同じように笑えないから。
だから、もうずっとここで暮らしていたい。」

龍は、一切を包み込むかのように、地平線のように、ただ静かに微笑んでいた。

「みんなと笑い、みんなと遊び、そして家に帰って来ると、何か大きな存在に、やさしく慰めてもらいたかった。
ただそれだけだったんです。
それだけを求めてずっと何かに追われるように何かを追いかけて、毎日を溺れるように生きてきました。」

「寂しかった。
もう、無理です。」

僕はもう、それまで自分を留めていた何かを越えて美意識の底から漏れ出たようなその言葉を、とても醜く、こぼれ落ちるように、悲しみと共に吐き出した。

それでも龍は、僕をそっと抱くように言った。
それは言葉ではなくてもっと波のようなものだったから、僕の耳はいろいろなものを受け損ない、かろうじて言葉として聞き取れたのは、次のようなことだった。

「あなたは何かと戦って、そしてここに降りてきました。
本当の仕事をする人はみんな、ここを通って行きました。
ここであなたは、その人々に出会うでしょう。」

僕が、よくわからないというふうに目をぱちくりやると、とても愛おしそうに月のようにゆらめく光の波を僕にくれたあと、続けてこう言った。

「沈んで沈んで行き着いた底で、あなたは、世界と繋がるのです。
落ちて落ちて、行き着いたここから。
だから、ここで見たものを、決して忘れないで。」

湖の上を遠く流れゆくオレンジ色の帆掛け舟が、きらっと光った気がした。

「いつかあなたが笑えるようになったとき、ここで見たものを、ここで感じたものを、いつか、今のあなたのように苦しんでいる人たちに、伝えるのです。
本当の仕事をしている人達は、みんなそれぞれのやり方でそれをしています。
あなたはあなたにできるやり方で、あなたに届く場所だけで、それをするのです。」

龍の瞳が、ぼうっと赤く燃えるように柔らかに光った。
その瞳を見つめていると、ある映像が僕を覆うように浮かんできた。

太陽の下で、波に沿って、光の模様がさらさらと反射している光景。
どこか知らないところ。
外国だろうか。
真緑の木々が伸びる真っ白い浜辺に真っ青な波の打ち寄せる、すべての色が命そのもののように濃く、それでいてとても穏やかな場所。
波音がすべてを洗い流し、それに合わせて鳥達が歌い、オレンジ色の朝陽が海原を彩り、じりじりと射す太陽の光が肌と心を健康に焦がす場所。
そこにある小さな家で、知らない人達がたくさんのおいしいものを囲んで、一緒に笑っている。
そこに向かって、黄色い花達が咲き誇る小道を恋人と話しながらとても楽しそうに笑顔で歩いている、いつかどこかで見たことがあるような大人の男。
会ったことはないけれど、とても見覚えのある顔。
それは、僕だった。
そしてそれは、とてもとても、しあわせな光景だった。

龍は言った。

「あなたの切なる祈り、それはいつも、こちらの教会の鐘に確かに響いています。
あなたがそちらになじめず、苦しみながらも他の人々に流されず心の奥でいつも静かに確かに大切にしているもの、それらはいつでも、すべてこちらの夜空に鮮明に明白に映っています。
あなたがそちらで流す正しい涙の一滴一滴、それらはすべて、こちらの泉にとても精妙に注がれています。
あの、光る泉に。
だから、憂えることはありません。」

声から透明な光の小さなかけらがたくさんきらきらとこちらに向かって切なく光るようだった。

「急ぐことはありません。
何も見えない嵐の中、あなたがもがくその軌跡の一つ一つは、一つ残らず必ず結晶となって、いつか人々を慰めるのですから。
そして本当はそれこそが、もっとも厳しくてもっとも尊い、あなたにしかできないことです。」

光を含んだ霧が、きらきらと、空から舞い降りてくるようだった
それは僕を優しく抱きかかえるように包んでくれ、雫となって僕の頬を伝い、雫は僕の手のひらにぽとん、と落ちた。

「あなたはもういつでもここに来れるし、本当はいつでもここにいるのです。
さあ、しばらくの間、行きなさい」

世界が真っ白に光り、透明な水をいっぱいに含んだ風が水平線の向こうから龍が舞うように吹いて、僕をどこかへと運んでいった。

急激に遠のく意識の中で、僕の目は、草原の片隅にあった小さな薄汚い水溜りを捕らえた。
そこには、小さな人々が必死に積み木を積んでいる映像が映っていた。
人々が、その小さな水溜りの中で、そこでのし上がるためだけに、競うように奪うように、積み木を積んでいる姿。
何て無意味なことをしているのだろう、と僕は淡く強く思った。
一瞬僕の目に飛び込んだそのイメージは、その儚さにかかわらず、強く深く僕の心に刻み込まれた。
そして僕はふいに、その水溜りに吸い込まれたようだった。

次の瞬間、僕は見慣れた街の上をとても当然と飛んでいた。
嵐のような雨が街を灰色に染め、ビルディングの影がぼんやりと吹き荒れる風の中に浮かんでいた。
僕はそんな中をさ迷うように、傾いてもう落ちそうになりながらよろよろと街を縫って飛んだ。
小さい頃にいつも遊んでいた公園が目に入ったので、そちらに向かって飛んでいくと、とても大きくて体中黒い毛だらけでぎろりと鈍く光る目をした怪物のような生き物が2匹、公園の前の道を大雨の中ぎゃーぎゃーと呻きながら歩いていた。
僕はもう恐ろしくて、震えるようにそこを離れ、今度は近くにあったマンションに向かってよろよろと倒れるように飛んでいった。
僕を一瞬も止むことなく打ちつける大きな雨粒達を受けながら、10階建てくらいのマンションのてっぺんを目がけて飛び、その中の1つの部屋に向かって足を突っ込んだ。
その部屋はなぜかとても小さく、僕の足がぎりぎり入るくらいの大きさしかなかった。
外から見た時は普通に見えたのになぁ、と不思議に思いながらも、無理やりにねじこむように足をつっこむと、すぽん、という音と共に、するりと体全体が小さくなったように部屋に滑り込んだ。
次の瞬間、僕はいつも見慣れた部屋の中にいたのだった。

目、が、ぼんやりとした灰色の映像を捉え、耳、が、小さな黒い箱から流れ出る騒がしい音を捉える。
だんだんと日常にひきこまれるように、僕の意識は世界に吸い込まれる。
この騒がしい世界に順応する。
僕はいつものように部屋にいて、部屋からは、沈む太陽が見える。
それは、あきれるくらいにいつもの見飽きた光景だった。

その時、突然激しい吐き気が僕の身体を襲った。
僕は急いでトイレに駆け込み、吐いた。
僕の身体から出たその呪いのようなものが、渦巻く水に流れ込んでゆくのを、じっと眺めていた。
僕の身体から出て、透明な水に流されてゆく、何か黒いもの。
それが下水道に流れ去ったのを見届けた僕は、水道をひねって新鮮な水を大量にごくごくと飲んだ。
そして、なぜかじんじんと痛む手のひらを、ぼーっと眺めた。
そして、そこに脈打つ血の流れを、何も考えずに時を忘れて感じていた。
どくん、どくん。
どくん、どくん。
どくん、どくん。

西日に照らされたこの部屋には相変わらず埃が舞い、テレビから聞こえる音は相変わらずどうしようもなく耳障りだ。
ただ、僕は理由のわからない内からのどろどろと粘りを持ったある衝動を感じ、さっき書いた「最後の言葉」を破り、ライターで燃やした。
そして、少し部屋の掃除をして、お風呂に入った。

湯気で霞む浴室の中、お湯につかりながら、タイルを見つめる。
汗が出て、何か靄のようなものが少しずつ体から抜け出ていくのがわかる。
少しずつ、頭がすんでくる。
気持ちよく暖かいお湯が、僕の身体を覆い、優しく包んでくれている。
何日ぶりに入ったのだろうか。
すごく気持ちが良い。
そうしてぼんやりと湯気にまみれて気持ちよくぷかぷか浮かんでいるうちに、
頭の中に、またふと、ある映像が浮かんできた。
小さい頃、お母さんとお父さんがケンカの後に仲直りをして、一緒にギターをひいている光景だった。

それはある夏だった。
父と母はいつにも増して激しい口調で叫びあい、押し寄せてくるその恐ろしい破壊の音と映像を、僕達兄弟は不安そうに見つめていた。
ガラスの割れる音と、母の甲高い叫び声が、僕の胸をきゅーっと締め付けた。
兄が、とうとう泣きだしてしまった僕を、無理やりに寝室に連れて行った。
遠くの方で何かの割れる音が聞こえる中、一人で取り残されたその部屋は、本当に真っ暗だった。
僕は眠れずに、ぬいぐるみの間に隠れるようにうずくまって、泣きながらその暗闇を見つめていた。
時折外からの花火のかすかな光を受けて、真っ暗な部屋がちらちらと照らされた。
おもちゃの機関車が、小さな音を立てて、コトコト回っていた。

僕は、その押し寄せてくる黒い波が、どうか完全に僕達を覆ってしまいませんように、と、小さな手を握り締めて祈っていた。
それは、真っ黒な分厚い雲がはるか昔に隠してしまった砂粒のような光に向けた、あまりにはかない祈りだった。

祈りは、届いた。

突然、そのまっ黒い世界に、まっすぐと光の筋が射し込んだ。
ドアが木の軋むような音を立てて少し開き、その隙間から黄色い優しい電球の光が漏れたのだった。
父と母だった。
お父さんとお母さんが入ってきて、お母さんは僕に「ごめんね」と言って、僕をぎゅっと抱きしめた。
その熱を持った手の感触が、僕の壊れた何かを癒すようだった。
お母さんはお父さんと手をつないで、僕を優しく抱っこして、リビングまで運んでくれた。
そのやわらかな黄色い光に覆われた小さな部屋では、お兄ちゃんたちも待っていた。
そして、お母さんが大きなスイカを切って、お皿に盛ってくれた。
僕達は、お父さんと、お母さんと、みんなでテーブルを囲んで座って、そのおいしいすいかを食べた。
そしてお母さんは、お父さんに教えてもらいながら、ギターを弾いていた。
その下手な音に、僕達はきゃっきゃと笑った。
チューニングのずれた下手くそなギターの音が僕達を包み、外では夜でもセミが鳴いていて、あの夏独特の汗の混じったような生命の匂いが僕達を覆っていた。
花火が、光っていた。

その突然よみがえってきたあまりにも唐突な映像に、
僕はもうどうしようもなくなって、格好悪くまたぼろぼろと泣いてしまった。
数え切れない泥に覆われて、すべての人々に見捨て去られてしまって、いつしか僕すら忘れ去ってしまっていたあの小さなタンポポは、それでもまだ僕の中で、静かに孤独に、おそろしいまでのしぶとさで、生き続けていたのだった。
僕は、この後スーパーに行って、おいしいスイカを1つだけ買って、それを食べよう。きっと、食べよう。
そう思って、僕は風呂を出た。

僕は今、途方にくれている。
もう、歩くのをやめてしまいたくなる。
できればもうずっと眠っていたいと思う。
だけど、それでも、僕が生きてさえいれば、すべては流れていくんだろう。
落ちて嘆いて、戦って疲れきって倒れてしまって、休んで、もう消えてしまいたいと思う夜を過ごして、太陽が昇ればしぶしぶ立ち上がって…。
はみ出しながら沈みながら、そうやって、なんとか、やり過ごそう。
そうしているうちに、季節はまた僕をどこか想像さえしなかったところへ運んでくれるのかもしれない。

どうせ、明日も今日と同じような日になって、僕はまたうつむくんだけれど、それでも、何かを探してしつこく命を繋いでいられれば、いい。
あと一日。
あと、もう一日だけ。
今はただ、そう、切に願う。

窓を開けて空気を吸った。
遠くで春の予感の匂いを含んだ風が吹いたという直感が、僕をかすかに確かに覆った。

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